ペルシャ絨毯の起源を特定するのは難しく、今から3000~4000年前といわれています。しかしながら当初は現在我々が目にするようなパイル織りではなく、獣毛を固めたようなものであったと思われています。絨毯は実用品であったためと石のような堅個な素材でないため、太古のもので現在残っているものはほとんどありません。ですから現存する資料をもとに推測するしかありません。 しかしながら、現在目にすることのできる絨毯があるのです。それはパジリク絨毯です。
それは今から約2500年ほど前のBC5世紀ごろのものとおもわれます。
この絨毯は、1949年当時ソヴィエトの考古学者セルゲイ・ルデンコの発掘チームが南シベリアのアルタイ山中パジリク渓谷で発掘したスキタイ王侯の墓から発見されました。その遺跡名にちなんでパジリク絨毯と呼ばれています。
羊毛と駱駝の毛の地糸に羊毛のパイルの見事な絨毯はスキタイ王侯の埋葬品の一部でした。古代、身分の高い富裕な人々の遺体は来世に無事に赴くことができるように、そしてそこで現世におけると同じ身分がなお保証されるようにと、生前の持ち物のすべてをもって葬られたのです。このような墓は盗掘のよい標的になりました。この墓も閉じられた後、盗賊にこじ開けられたが絨毯は残されました。盗掘後いい加減に閉じられた墓には水が流入し、そのため墓は永久凍結の状態になり、絨毯を老朽と腐敗から守ることになったのです。
こうして皮肉にも盗賊がこの歴史的織物を後世に残すことになったのです。そしてソヴィエトの考古学チームがそれを発見するまで手つかずのまま残されていたのです。
現在パジリク絨毯はロシア・サンクトペテルブルクの「エルミタージュ美術館」に保存されています。
このパジリク絨毯は約1.8×2mの大きさで、5列のボーダー文様を配し、中央には鹿のような走獣文、馬を引く人物、騎馬人物などが表現されています。そのスタイルはペルシャ最初の統一帝国であったアケメネス王朝期の文様と似ており、赤を基調として細部に青、緑、黄色をつかった色彩構成がペルシャ絨毯の様式に沿ったものである点から、ペルシャでつくられたと推定されてきましたが、最近の考古学的見地から中央アジア製作説が有力になっています。
織りの細かさやデザイン性、そして洗練されたカラーバランス。このような完成度の高い絨毯がすでに織られていたことが明らかになりました。それだけの技術やセンスが一朝にできるものではありませんから、3000年の歴史があると類推するのは間違いないと思われます。
サファビー朝(1501~1736)のタブリーズに都を置いた第2代のシャー・タハマースプ(在位1524~76)とイスファハンに都を移した第5代シャー・アッバース1世(在位1587~1629)の時代はペルシアの美術工芸の黄金時代でペルシア絨毯の製作も最盛期を迎えました。アッバース1世によって都がイスファハンに遷されたことは絨毯製作に大きな意味を持っています。新しい王宮、庁舎、邸宅の建設にともない、絨毯の需要が増大し、そのため宮廷工房が設立されました。そして羊の飼育から染料植物の栽培まで一貫して宮廷の敷地内で行われたといいます。
その後イランでは1860年頃から急激に絨毯が製作されるようになり、今日我々が目にする絨毯の大半はこの頃以降に製作されたものです。現存するもっとも古いペルシア絨毯は、イラン北西部のタブリーズ付近で作られたといわれていますが、それは中世以降ペルシアの貿易の中心となっていたタブリーズの商人たちの活躍によります。特に16~17世紀頃製作されたものはヨーロッパの美術館・博物館にも数多く所蔵されています。特に有名なのはロンドンのV&Aミュージアムのアルデビル絨毯でしょう。
その後、王朝の推移によりさまざまな変遷をたどりながらも製作は続けられ、近代に入るとヨーロッパにも影響を与え、英国のウィリアム・モリスなどもアーツ&クラフツ運動のなかで独自の手織り絨毯製作を行なっています。また、フランスの花文様が逆輸入されペルシア絨毯に取り入れられたりしています。 近年では、クム、ナイン、タブリーズ、イスファハン、カシャーンなど有力産地を中心に技術や品質、デザインにも一層の磨きのかかった絨毯が製作され、私たちを楽しませてくれます。